つはものどもがゆめのあと ~蒙古来襲編~

Masakatsu Nishitani

2009年07月13日 22:18

うちの会社は、早良区昭代で分譲住宅「昭代文箱プロジェクト」というのを進行しております。足場を解体して、建物全体がお目見えしました。この地域は文教地区ということもありまして、歴史のお話をします。



このすぐ近くに祖原公園(祖原山)があります。鳥がさえずり、木漏れ日が綺麗な、頂上はかなり眺めのいい公園です。



実は、この祖原山、鎌倉時代中期、かの蒙古来襲(元寇)の際に元軍の本陣であったとされるところなのです。元軍はこの地を拠点に、現在の赤坂、鳥飼のあたりで日本軍と激戦を繰り広げたようです。



文永の役、弘安の役と2度の日本侵攻があったわけなんですが、弘安の役では日本軍4万に対して、元軍14万。圧倒的な軍勢だったわけですが、暴風雨により大船団が壊滅状態となり撤退したとされています。

昔、ディスカバリー・チャンネルでこの戦いの分析がされていたのですが、そこでは、元軍の船団は軍船ではなく、ほとんどが川船で、構造的にもろいものだったそうです。難破船を調査したところ、その多くが同じ方向に倒れていて、暴風雨によって沈没したことを示すと言ってたような気がします。陸戦においても、日本軍が一方的にやられてたようなイメージがありますが、実際はそうでもなかったようです。元軍(モンゴル帝国)は、本来、騎馬民族ですから、本来の強さも発揮できず、海戦にも慣れていなかったので、侍ジャパンにも利があったんでしょうね。

この祖原山を通るのですが、元軍が陣を構えるのを想像したりして、"つはものどもが夢の跡"を感じています。


祖原・昭代の文教地区で分譲中。注文住宅はコモス・スタイル